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第26話 代償を越えても、ただ一人を

last update 게시일: 2026-03-24 20:12:51

 音瀬の家から戻った俺は、駅前の古い駐車場で佐伯と落ち合った。

 夜明け前の空気は、どこか張りつめていた。

 駅から少し離れたコンビニ裏、人気のない駐車場に、黒い車がぽつんと停まっていた。 助手席には、佐伯が座っていた。ハンドルにもたれ、無言のまま煙草をくゆらせている。

 俺は、薄いドキュメントケースをそっと持ち上げた。

 中には、家で見つけた古文書と──契約書。

「……見つけた。家にあった、古文書。記録と──契約書」

 佐伯は煙を吐き出し、ゆっくりと手を伸ばす。資料を広げると、眉根を寄せた。

「寛永元年、神霊との契約を結び、血脈をもって守る……?」

「音瀬家は、四百年前から神根遺跡の神と契約してた。信仰を捧げる代わりに、繁栄を授かっていたんだ」

「……力を貸す代わりに、崇められる。神にとって、信仰こそが力の根源だからな」

 佐伯は目を細め、手元の契約文を指先でなぞった。

「宗教的な意味じゃなくて、本当に契約……か。これはもう、伝承とか神話とかいう話じゃないな」

 俺は頷き、重く息を吐いた。

「アマは、その神から分かたれた分霊の一体だった。……俺たちの家が、
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     熱の底で、遼は何かを追いかけていた。  金色の光みたいなもの。  あたたかい手。  胸の奥がぎゅっと痛くなる感じ。  それが何なのか、どうしてこんなに苦しいのか、もうわからない。  目を開ける。  見慣れた天井だった。自分の部屋だとわかるのに、身体が鉛みたいに重い。  襖の向こうで、声がした。 「遼のことは問題じゃない。分霊が消えた。それが問題だ」  父の声だった。  遼は息を止めた。  分霊。  知らないはずの言葉なのに、その響きだけが妙に胸を刺した。 「問題じゃない?」  栄子の声が、低く震えた。 「目を覚まさないのに?」 「戻ったなら十分だ」 「十分なわけないでしょ」  短く、鋭い声だった。 「遼は連れていかれかけたんだよ。  消えたのがそっちじゃなくて、遼だったかもしれないのに」  父は少しも揺らがなかった。 「その方がよかった。〈天〉を失った今、この家は終わる」  その言葉に、遼の胸がまた痛んだ。  何を失ったのかはわからない。  でも、自分より大事なものがあるのだと、父は言っている。 「……最低」  栄子が吐き出すように言った。 「こんな家、終わっていいよ」 「音瀬の者ならわかるはずだ」 「わかりたくない」  ぴしゃりと返る。 「私は家のためじゃない。遼のためにやったの」  その声だけが、熱の中の遼にははっきり聞こえた。  遼は布団の上で、そっと指を握る。  何かあたたかいものに触れていた気がした。  大事だった気がするのに、思い出そうとすると、輪郭はするりと逃げていく。  気づくと、目の端から涙がこぼれていた。  熱い涙だった。  頬を伝って、枕へ落ちる。  どうして泣いているのか、自分でもわからない。  ただ、もう二度と触れられないものがある気がして、胸の奥がひどく痛んだ。 ***  あの日から、長い時間が過ぎた。  シーツの熱が、まだ肌に残っていた。  遼は佐伯の腕の中で浅く息をつきながら、ぼんやりと天井を見ていた。  身体の奥はまだ少し痺れているのに、不思議なくらい心は静かだった。  佐伯の指が、遼の髪をゆっくり梳く。  その手つきは、さっきまでの熱とは違って、ひどく優しい。 「……寝る?」  低い声が耳元に落ちる。 「んー……まだ」  答

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     最初のうちは、窓の外にも見慣れた景色が流れていた。  閉まった店の灯り、途切れがちな街灯、黒く沈んだ家並み。  けれど、いくつか駅を過ぎたあたりから、遼は小さく眉を寄せた。  こんな線路だっただろうか、と思った。  窓の外が、妙に暗い。  ただ夜だからというだけじゃない。遠くにあるはずの家の灯りが見えず、木立ばかりが続いている。しかも、その木々は風もないのに、ときどき水の底みたいにゆらいで見えた。  隣で、アマはじっと窓の外を見ている。 「……アマ」 「うん」  返事はいつもどおり穏やかだった。  けれど、その横顔を見た瞬間、遼の胸の奥がまたきゅっとする。  アマは、知っているのだと思った。  この先へ行くことを。  この景色がどこへつながっているのかを。  電車がトンネルに入る。  窓の外が真っ黒になった。  その瞬間、車内の灯りがひとつ、ふっと明滅する。  遼は思わずアマの手を握り直した。  すぐそばで、アマが遼を見る。 「こわい?」  遼は少し迷ってから、小さく頷いた。 「……ちょっと」  アマは怒らなかった。  笑いもしない。  ただ、遼の手を包みこんで、静かに言う。 「だいじょうぶ」  その声に、また胸がきゅっとした。  怖いのに、うれしかった。  その手があるだけで、行ける気がしてしまうのが、いちばん怖かった。  長いと思ったトンネルは、音もなく終わった。  けれど、抜けた先の景色を見て、遼は息を呑んだ。  知らない駅だった。  ホームは古く、灯りは青白い。  看板らしきものはあるのに、字が読めない。読めるようで読めない、見ていると形だけが崩れていくみたいな文字だった。  窓の外には、黒い森が広がっている。  その向こうに、どこか見覚えのある山の影があった。  神根だ、と、なぜか遼は思った。  扉が開く。  外の空気はひどく冷たかった。  夏の夜のはずなのに、そこだけ季節が違うみたいだった。  アマが立ち上がる。 「ついた」  その声は、うれしそうだった。  遼も立ち上がりかけて、ふと動きを止める。  ——いや。  神根遺跡は、もっと遠いはずだ。  電車を何本も乗り継いで、それでも最後は山道を行かなければ着かない。  こんなふうに、夜の電車に少し乗っただけで

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     それから半年ほど、遼は何度も離れへ通った。 最初は水と干菓子を持っていくだけだった。けれどそのうち、庭で拾った石や、折った草の葉や、書庫でこっそり覚えた言葉まで持っていくようになった。アマは少しずつ人の言葉を覚え、遼の来る時間になると、障子の向こうでじっと待つようになった。 遼も、ただ会いに行っていただけではなかった。 何度か言葉を交わすうちに、アマが「かみね」から来たのだとわかった。それが神根遺跡のことだと気づいた頃には、もう季節が二度変わっていた。 父の本棚から地図帳を出して、神根の字を何度も指でなぞった。裏門から駅までの道を頭に入れ、庭師が話していた山道のことも覚えた。缶にしまってあったお年玉を何度も数え、これだけあれば二人で電車に乗れるだろうかと真剣に考えた。 子どもの考えることだから、きっと抜けだらけだった。 それでも遼は本気だった。 秋が深まるころには、アマに触れられるたび、遼の体にはもうはっきり変化が残るようになっていた。手首を掴まれればそこから熱がひろがったし、肩に指が触れるだけで、胸の奥や下腹のあたりが落ち着かなくなった。 なんだろう、これ、と何度も思った。 でも嫌ではなかった。困るのに、次もまた触れてほしいと思ってしまうのが、いちばん困った。 その日、遼は離れの座敷で膝の上に手を置いたまま、小さく息を吸った。「……きょう、いこう」 アマが金の瞳を上げる。 遼はどきどきしながら続けた。「調べたんだ。駅まで行って、電車に乗れば、神根の近くまで行ける。お金もある。たぶん、行ける」 アマは黙って遼を見ていた。 その視線に見つめ返されるだけで、遼の胸はまた少し熱くなる。「ほんとは、たぶん、だめなんだと思う。姉さんも変なこと言ってたし、見つかったら怒られる」 そこまで言って、遼は唇を結んだ。「でも、きみをここに置いていくの、もういやだ」 しんとした座敷の中で、アマがゆっくり瞬きをする。「……きみ、かえる?」 アマは遼を見て、それから小さく訊いた。「いっしょに、かえる?」 遼は息を止めた。 返してあげる、とは言った。 けれど、一緒に帰るつもりだっただろうか。自分の家はここで、学校もあって、母も姉もいる。そのはずなのに、アマの金の瞳を前にすると、「ちがう」と言うのがひどく怖かった。「……」 少しだけ迷っ

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった③

     翌日の午後、遼は小さな水差しを抱えて離れへ向かった。  怖くないわけではなかった。姉に言われた言葉も、まだ胸のどこかに引っかかっている。けれど、それよりも、もう一度あの金の瞳を見たい気持ちのほうが強かった。  障子の前に立つと、昨日と同じように空気がひやりと変わった。夏の終わりの庭の匂いが遠のいて、古い木と畳の冷たい匂いだけが残る。  遼は小さく息を吸って、障子を開けた。  その人は、昨日と同じ場所にいた。  淡い金の髪が肩から背へ落ちて、薄暗い座敷の奥でじっとしている。けれど遼の顔を見た瞬間、金の瞳がほんの少しだけひらいた。 「……きた」  低い声だった。  その声を聞いた途端、遼の下腹の奥が、きゅう、と縮んだ。  嫌なような、でも少し甘い痺れが走って、遼は思わず息を止める。  なんだろう、これ、と思った。 「……うん。お水、持ってきた」  座敷へ上がって差し出すと、その人は不思議そうにそれを見たあと、そっと両手で受け取った。飲み方は少しぎこちなくて、喉が上下するのを見ていると、本当に喉が渇いていたのだとわかる。  昨日、戻れなかったことが急に申し訳なくなって、遼は膝の上で手を握った。 「……ごめん。昨日、戻るって言ったのに」  その人は水差しを抱いたまま、少し首を傾げた。 「きたから、いい」  それだけで許されるのが、かえって困る。遼はますます胸の奥が落ち着かなくなった。  しばらく黙ってから、遼はぽつりと訊いた。 「なんで、きみはずっとひとりでここにいるの」  その人は少し考えるみたいに目を伏せた。 「……まえは、ひとりじゃなかった」 「じゃあ、なんで」  金の瞳がゆっくりと遼を見る。 「ついてきたら、かえれなくなった」  遼は息を止めた。  うまくわからない。誰に、とは聞けなかった。でも、その言い方がひどく寂しくて、遼は胸の奥がきゅっとした。 「きみ、名前は?」  その人は少し首を傾げた。 「なまえ?」 「うん。きみのこと、なんて呼べばいいの」  しばらく黙っていたあと、その人はゆっくり首を振った。 「……ない」  遼は目を瞬いた。  名前がないなんて、そんなことあるのだろうか。犬にも猫にも、庭の鯉にだって名前はあるのに。 「……ないんだ」  思わずそう言うと、その人は何も答えなかっ

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった②

    「……だいじょうぶ?」  変なことを聞いた、と遼は言ってから思った。  相手は少しまばたきをして、それから、ほんの少し首を傾げた。 「……だいじょうぶって、なあに?」  遼は息を止めた。  その返しが変だった。  言葉の意味が通じていない、というより、その言葉が最初からこの部屋にはないみたいだった。  ぞわ、とまた背中が粟立つ。  やっぱり、まずい。  ここにいてはいけない気がした。  遼は思わず一歩だけ後ずさった。廊下へ出て、大人を呼んだほうがいい。そう思うのに、相手の金の瞳がじっとこちらを見ていて、うまく足が動かない。 「えっと……つらくない、とか。いたくない、とか……そういうの」  説明しながら、自分でも何をしているのかわからなかった。  相手は黙って聞いている。  その顔が、綺麗なのにひどくわからなくて、遼はまた少し怖くなる。  やっぱり帰ろう。  今度こそそう決めて踵を返しかけたとき、相手がそっと手を伸ばした。  大きな指が、遼の手首を包む。  びくっと肩が跳ねた。  強く掴まれたわけではなかった。振り払おうと思えば、たぶんすぐにできた。  けれど、その手は思ったより温かくて、遼は一瞬、息を止めた。  人の手の温かさとは少し違った。  火みたいに熱いわけでもないのに、触れられたところからじんわり何かが染みてくるようで、手首の内側が落ち着かない。 「……いかないで」  掠れた声が落ちる。  その声が、あまりにも寂しそうだった。  遼は息を止めたまま、掴まれた手首にそっともう片方の手を添えた。  振り払うというより、傷つけないように指を外していく。  大きな手は、少し名残惜しそうに、けれどあっさり離れた。 「……すぐ、戻るから」  そう言って、遼は座敷を出た。  けれど、結局その日、戻ることはできなかった。  水を持っていくつもりだったのに、離れを出た途端、急に怖くなった。誰かに見つかることも、この家の言いつけを破ったことも、あの金の瞳にまた見つめられることさえも、急に現実味を帯びたからだ。  それでも、掴まれた手首のあたたかさだけは、いつまでも消えなかった。 ***  その夜、遼はなかなか眠れなかった。  目を閉じるたび、離れの暗い座敷と、あの金の瞳が浮かぶ。  怖かったはずなのに、

  • 幼い頃に契約した神様が、今も俺を離してくれない   番外編 きみを神根へ返したかった①

     音瀬家の子どもは、離れのいちばん奥に近づいてはいけない。  遼は、小さい頃から何度もそう言い聞かされてきた。  夕方から先は行くな。  鈴の音がしても、呼ばれたと思うな。  見ても、知らないふりをしなさい。  理由を聞いても、大人たちは誰も答えなかった。答えないくせに、その話になると、みんな少しだけ声をひそめた。障子を閉める手つきまで、どこか急いでいた。  だから遼も、離れの奥には口にしてはいけない何かがいるのだと、なんとなく知っていた。  その日も、夕方の縁側から使用人が膳を運ぶのが見えた。白い飯、湯気の立つ汁物、季節の菜。けれど、それはいつもほとんど手つかずのまま下げられる。  どうして食べないのだろう。  どうして誰も、そのことを気にしないのだろう。  気になって、遼は庭へ下りた。  石畳はまだ昼の熱を残していたのに、離れに近づくにつれて足元の空気だけがひやりと変わった。夏の終わりの夕方だった。蝉の声も、母屋のほうの話し声も、そこだけ薄い布を一枚かけたみたいに遠くなる。  離れの前に置かれた膳は、そのままだった。  汁の表面に張りかけた膜が、時間の経ち方を見せている。  そのとき、奥で鈴が鳴った。  ちりん。  遼の肩がびくっと揺れた。  細い音だった。高くも低くもないのに、耳ではなく、背中の真ん中に直接落ちてくるみたいな鳴り方だった。  もう一度、ちりん、と鳴る。  呼ばれている気がしたわけではない。  けれど、誰かがそこにいて、じっと息をひそめているのだとわかってしまった。  行ってはいけない。  見ても知らないふりをしなさい。  頭の中で祖母の声がした。  それなのに、遼はその場を離れられなかった。  怖い。  なのに、どうしてか胸の奥が妙にざわつく。逃げたいのとは少し違う、もっと落ち着かない感じだった。障子の向こうにあるものを見なければ、今夜は眠れない気がした。  遼はそっと縁に手をかけた。  障子紙は夕方の光を薄く吸って白く光っていた。近くで見ると、桟の木は古く、指先にざらりと毛羽立っている。  その白さの向こうに何かいると思うだけで、ぞく、とした。  開けたらいけない。  ここを開けたら、何かが変わる。  そんな気がしたのに、指は離れなかった。  ほんの少しだけ。  中を見て、

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